しもだだんじりほぞんしょうけいじぎょう
下田地車保存継承事業
- 奈良県
- 10月
地区内の鹿島神社では、秋の祭礼に合わせて「秋祭り」が挙行され、五穀豊穣・町内安泰を祈願し、地車を曳行していた。下田地区地車は、昭和31年に刊行された『大和下田村史』に「秋祭りには、大和有数の豪華な地車を飾り立て練り歩いた」と見え、鐘や太鼓の鳴り物を載せ、紅白の提灯で飾られて村内を盛大に曳き回されていた。地車の車軸が破損して以降、永らく鹿島神社の山車殿に保存されていた下田地車を約六十年振りに曳き回す。
【対象となる文化財や伝統芸能・伝統行事等の起源】
・下田地区の歴史について
奈良県香芝市下田は、『万葉集』に詠まれた二上山東麓に位置し、その諸峠を越えて河内方面と結ばれ、古代から交通の要衝として発展してきた。中世以降は中部・東海から近畿地方にかけて広範囲の地域で活躍した大和下田鋳物師の発祥の地として知られる。近世・近代には、農業や木綿織、靴下・金剛砂産業等が大いに発展し、明治24年・昭和2年に鉄道が敷設され、現在香芝駅と下田駅の2駅が存在する。道路も順次整備され、国道165号・168号が縦横に通り、古にまして交通至便の地となっている。
地区内には神社三社が鎮座し、秋の祭礼に合わせて「秋祭り」が挙行され、三社に五穀豊穣・町内安泰を祈願し、各々地車を曳行していた。『大和下田村史』(昭和31年刊)には、「秋祭りには、大和有数の豪華な地車を飾り立て練り歩いた」とみえ、鐘や太鼓の鳴り物を載せ、紅白の提灯で飾られて村内を盛大に引き回されていた。古老の話しでは、「当時は村の青年団が中心となって巡行していたが、血気盛んな激しい曳行であったため、昭和30年代頃に車軸が破損した」とのことである。それ以後、経済的な負担や社会的な風潮の変化もあって、曳行は中止となり、他の2基もいつしか姿を消したが、現在残る地車の堂々とした佇まいは健在で、威厳と風格を保っている。
なお、この事業をきっかけに近代文書を再整理したところ、昭和31年1月26日起『結鎮座諸記録』に、青年団長以下役員の要請により、昭和33年10月17日に地車を引き出したとある。この時まで地車は10年近くも引き出さず、破損も多く危険なので修理補強した方がいいこと等が記載されている。地元の古家からその時地車を引き出した際に撮影した記念写真が新たに見つかっている。また、往時から、地元で親しまれていた様子がうかがい知れる貴重な資料である。
・下田地車(ダンジリ)について
この地車は、鹿島神社境内の山車殿(平成2年再建)に保存されている。諸記録は滅失しているが、同社の拝殿が再建された嘉永7年(1854)は、地車の製作年と一致する。また同年に境内整備が行われていることなどから、地車の新調と旧地車小屋はこの時に新築されたと考えられる。
地車の形式は、段差勾欄堺型に準じるもので、地車大屋根裏の墨書銘から、嘉永7年、河内志紀郡舟橋邑の大工棟梁庄右衛門の他11名の大工によって製作されたことがわかる。また彫り物師は、地車の見送り部にある船の舳先に「堺彫又」の刻銘があり、年代的にみて、堺(彫又)一門で初代枡屋又兵衛の作と推定される。主な作品としては、
・大阪府河内長野市小塩 地車(元堺市新在家 地車)
・奈良県広陵町馬見大垣内 地車
・大阪府柏原市本郷 地車
・奈良県香芝市下田 地車
などが知られる。
地車の彫り物の題材は、見送り三枚が源平の戦いが主題となっており、後部見送りでは、「壇ノ浦の戦い 平知盛」で、右側見送りは、「壇ノ浦の戦い 平教経の最後」(船の舳先に「堺彫又」の刻銘がある)、左側見送りは、「一の谷の逆落とし 源義経と弁慶」という構成になっている。これは保管されている鹿島神社が源家所縁の神社であることが関係している。その他各部位の彫刻には、「鉄拐仙人」や「青龍」、「坂田金時と山姥」、「平敦盛」といった縁起や古典、謡曲、浄瑠璃などの題材が施されており、職人たちの芸術性の高い、細やかかつ迫力ある細工には目を見張るものがあり、地車研究において資料的な価値が高く、貴重な存在である。
・日中に地車曳行を行う。
・夕方からは地車をメインに蝋燭や提灯で飾りつけを行う。
・飲食店も数店